【millennium parade】の「FAMILIA」について、歌詞の意味を徹底的に考察および解説していきたいと思います。
✔ 映画『ヤクザと家族 The Family』との関係
✔ すべてを包み込む井口理の歌声
✔ 常田大希が贈る壮大なスケールの歌詞
常田さんが「私、今後FAMILIA以上の曲を書ける自信がありません」と語る最高傑作。歌詞を考察いたしましたので是非最後までお読み下さい…!
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映画「ヤクザと家族 The Family」主題歌
今回紹介していく「FAMILIA」は、音楽集団・millennium paradeが2021年2月10日にリリースしたデビューアルバム『THE MILLENNIUM PARADE』に収録されている楽曲。
綾野剛さん主演の映画『ヤクザと家族 The Family』主題歌として書き下ろされました。
millennium paradeはKing Gnuでもボーカル・ギターを務めている常田大希さん率いる音楽プロジェクト。
楽曲ごとに様々なミュージシャンを迎えてレコーディングが行われてきましたが、今回はついにメインボーカルとしてKing Gnu・井口理さんが初参戦されています。
作詞・作曲を務めた常田さんは楽曲について、
愛すべき仲間達が死力を尽くして紡いだ “家族の物語” を最高の形で締め括るべく、
“さとる・石若・アヤタケ・新井・せきゆー” という長年活動を共にする最高の家族達と共にこの楽曲を完成させることが出来て正直ホッとしております。
私、今後FAMILIA以上の曲を書ける自信がありません
とコメントされています。
「私、今後FAMILIA以上の曲を書ける自信がありません」とまで本人が豪語する、音楽家・常田大希の最高傑作。
常田さんは「俺の葬式ではこの曲を歌ってくれ」とまで井口さんに依頼しているというのですから驚きです。
改心の一作「FAMILIA」は一体何を歌った楽曲なのか、この記事では歌詞に注目して読み解いていきます…!
楽曲名「FAMILIA」とは
「FAMILIA」はスペイン語で家族を表す言葉。
映画『ヤクザと家族 The Family』の世界観に寄り添い、家族、あるいは家族と呼べるほど時間を共にしてきた仲間たちを想い製作された楽曲であるようです。
主演の綾野剛さんが「FAMILIA」について
音楽は目に見えない
映らないしかしこのMVは、音楽の可視化に成功した、類稀なる作品である
もっと言えば、鎮魂と賛美と“FAMILIA”の実写化である
とコメントされていますが、この言葉が全てを物語っている気がします。
タイトルの意味を確認したところで、さっそく本題の歌詞を見ていきましょう。
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歌詞
この身賭けたとて
釣り合う訳もない
あなたの幸せに
愛しこの日々に
意味などは要らない
ただただ傍に居たい
道半ば果てたとて
もう思い遺すことは無いぶくぶく吐き出した泡一粒
海岸に散らばる無数の石の粒
生まれも育ちも
この世界の仕組みも
狂っているよ全部
俺もお前も結局嗚呼
沸いては弾ける命か
海から揚げられた遺体は
いつかの俺の姿か嗚呼
息継ぎの仕方さえ忘れた
そんな今もただただ
生きたいと泣いてた遠ざかる愛を
引き戻せるのなら
この身など幾らでも
何処へでも差し出すから
走馬灯に映る全ての記憶が
あなたで埋め尽くされたなら
もう思い遺すことは無い嗚呼
あまりにも若すぎたの
今更引き返せやしないよ
愛を知ってしまった
その代償は計り知れないね嗚呼
後悔なんて無意味だ
あなたの瞳が輝いてる今が奇跡だ
愛を知ってしまった
此の期に及んで尚
生きたいと泣いてた走馬灯に映る全ての記憶が
あなたで埋め尽くされたなら
もう思い遺すことは無いこの身賭けたとて
釣り合う訳もない
あなたの幸せに
愛しこの日々に
意味などは要らない
ただただ傍に居たい
道半ば果てたとて
もう思い遺すことは無い
作詞:Daiki Tsuneta
歌詞の意味・解釈
1番
この身賭けたとて
釣り合う訳もない
あなたの幸せに
愛しこの日々に
意味などは要らない
ただただ傍に居たい
道半ば果てたとて
もう思い遺すことは無い
ヤクザとして生きた主人公の一生を描いた映画『ヤクザと家族 The Family』主題歌「FAMILIA」。
この楽曲の最大の目的は、愛する人のために命を全うした男の人生の肯定です。
「この身賭けたとてあなたの幸せに釣り合う訳もない」
「道半ば果てたとてもう思い遺すことは無い」
映画の詳しい内容には触れませんが、愛する誰かへの想いを綴ったこの歌詞からも読み取れるように、この曲で描かれる人物は愛のために自らの命を捧げます。
”あなた” と過ごす意味などない日々を愛しく思いながら、”あなた” が幸せでいられるならば「もう思い遺すことは無い」と。
あえて「思い残す」ではなく「思い遺す」と漢字が当てられていることからも、死をも厭わない強い意志が感じられますね。
MVなどを見れば明らかなように、結論から言えば、この人物は既に命を落としています。
大切な「FAMILIA」への愛と、「FAMILIA」のための自己犠牲。
こうしたテーマを抑えながら、次の歌詞を見ていきましょう。
ぶくぶく吐き出した泡一粒
海岸に散らばる無数の石の粒
生まれも育ちも
この世界の仕組みも
狂っているよ全部
俺もお前も結局
ここでの「泡」「石の粒」といった描写は単純な情景描写でありながら、儚い命の比喩としても機能しているように思います。
意味もなく生まれては弾けていく泡や、波風に削られながら海岸に打ち上げられてゆく石の粒に、人間の人生を重ねているのでしょう。
《生まれも育ちも この世界の仕組みも 狂っているよ全部》
こうした狂った世界を嘆く歌詞はKing Gnuやmillennium paradeの他の楽曲でもよく見られるもので、いうなれば常田さんの常套句であり普遍的なメッセージです。
運命は残酷だし、今の世の中は狂ってる。誰もが矛盾を抱えている。
それでも愛を持って生きていかなければ ―
彼が作詞する楽曲はいかなる曲でもこのメッセージが根底にあり、それは「FAMILIA」も決して例外ではありません。
残酷な運命に翻弄されながら、楽曲の主人公は愛のためにその身をささげています。
嗚呼
沸いては弾ける命か
海から揚げられた遺体は
いつかの俺の姿か嗚呼
息継ぎの仕方さえ忘れた
そんな今もただただ
生きたいと泣いてた
この部分は映画の展開に沿った歌詞となっているのですが、一見すると《道半ば果てたとて もう思い遺すことは無い》という冒頭の歌詞と矛盾しているようにも思えます。
「あなたのためなら死んでもいい」と歌いながら、生きたいと泣いているのです。
シンプルに考えればこの部分だけ曲の主観が主人公から別の人物に切り替わっているのでしょう。
しかしそれだけではなく、これは人間の抱える相反する二つの感情を対照的に描いているように感じてしまいます。
愛する人の幸せのためならばこの身など捨てると決意しながらも、沸いては弾ける泡に自らを重ね、不器用にもまだ生きたいと願う。
きっとこの楽曲が前者の自己犠牲の部分だけを切り取った楽曲であったならば、それは薄っぺらく淡泊のものに映ったことでしょう。命など捨てたっていい、とだけ歌うことは嘘になります。
偽らず、包み隠さず人間の二面性を描いているからこそ楽曲がよりリアルで、美しいものになっているのではないでしょうか。
サビ1
遠ざかる愛を
引き戻せるのなら
この身など幾らでも
何処へでも差し出すから
走馬灯に映る全ての記憶が
あなたで埋め尽くされたなら
もう思い遺すことは無い
サビで再び歌われているのは、愛する人のための自己犠牲です。
自分が手を汚せば、自らの命を差し出せば誰かの愛を引き戻せるならばそれでいい。
走馬灯があなたで埋め尽くされるならば、他に何も望むことなどない。
ここで歌い上げられる生き様は他社のために命を捨てる行為の肯定であり、見様によっては愚かなものに映るかもしれません。一歩間違えば人命の軽視です。
しかしそんな心配はmillennium paradeの前では杞憂に過ぎません。
ここから畳みかけるように圧倒的なスケールで展開される音楽が、愛のために生きる人間の人生を包み込み、絶対的に美しいものへと昇華させていきます。
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