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【米津玄師/優しい人】歌詞の意味を徹底解釈! 虐げられる人々を描いた鮮烈な楽曲。

2番

周りには愛されず 笑われる姿を
窓越しに安心していた
ババ抜きであぶれて 取り残されるのが
私じゃなくてよかった

2番冒頭。ここではあまりに正直な少年の心情が描かれています。

 

虐げられる人を見つめる自分。

可哀そうだと思う一方で、「いじめられるのが自分じゃなくてよかった」なんて愚かなことを思ってしまうのでした。

愛されずに笑われ、不運にも取り残されるのが自分でなくてよかったという安心感。人間の醜いエゴです。

 

しかしババ抜きで最後に残りたくないと願うのと全く同じように、きっとそれは誰もが抱く感情で、全く思わない方が不自然と言えるでしょう。

 

当然このようなリアルを描くことを避け、もっと間接的で文学的に美しい表現にすることだって米津さんには容易いことだったように思いますが、彼はそれを選びませんでした。

あくまで責任から逃れず、現実を直視して描きたかったのです。

 

 

強く叩いて 「悪い子だ」って叱って
あの子と違う私を治して

「取り残されるのが私じゃなくてよかった」

そんな愚かなことを思ってしまう自分をどうか叱りつけてほしい。「悪い子」だって教えてほしい。治してほしい。

彼はそう強く願います。

 

周囲の人もきっと彼と同様に、心のどこかでそんな醜い感情を抱いているはずです。

しかしそんなことは知る由もないピュアな少年は、自分だけが愚かな考えを抱えていることが怖いのです。

 

サビ2

あなたみたいに優しく
生きられたならよかったな

優しくなりたい 正しくなりたい
綺麗になりたい あなたみたいに

あなたみたいに優しくなりたい

そんなあまりに純真無垢な少年の願いには、どこか美しさのようなものすら感じてしまいます。

と同時に、きっとそうあるべきなんだろうとも思わされます。

 

人間なのだから、道徳的に正しくない「悪」を心に抱えているのもある意味で当然のこと。

「かわいそう」だと全く思わないでいられるほうがきっと不自然だし、「虐げられるのが自分じゃなくてよかった」と心の中で清廉潔白、一切思っていない人なんてきっといないでしょう。

 

しかしそれを大人のようにひた隠しにするのではなく、少年のように自分を憎み、必死に優しくて正しい人にあろうとする姿こそが、まさしく綺麗で正しいものなのかもしれません。

 

「優しくなりたい」「正しくなりたい」「綺麗になりたい」

 

少年の実直で美しい姿を描いた「優しい人」

現実を直接的に描いたからこそ表現できた世界観であるように感じます。

 

感想

虐げられる人と、それを傍観している自分。

米津玄師さんの楽曲としては珍しく、直接的な表現で現実を描いた楽曲でした。

 

「あなたみたいに優しく生きられたらよかったな」

それはまさしく小学生時代の米津さんの記憶に基づいた、極めて純真な願いです。

 

現実から目を背けることは音楽家としての責任から逃避すること。

あえて虐げられている誰かを描くというある種の禁忌を犯すことで、何かをすることは誰かを傷つけることだ、と自らを戒める楽曲。

 

【優しい人/米津玄師】

歌詞の意味の解釈でした!

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コメント

  1. ちきーた より:

    私は全く違う解釈をしました。
    一番で「わたし」が醜いと見てしまう気の毒な子を、綺麗だと言える「優しい人」に憧れる心を表し
    「頭を撫でてただ『いい子』だと言って」
    「あの子に向けるその目で見つめて」
    自分もあなたと同じ「仲間になりたい」
    という前向きな気持ちにも読めます。
    しかしその裏で
    「気の毒な子を醜く見ている自分」もまた「綺麗だと思えない醜い子」であって
    そんな自分のありのままを「あの子に向ける目と同じ目線で肯定して欲しい」
    つまりは自分も「醜いけれど綺麗(と言われる)子」になりたい、という意味にも
    読めます。

    逆に二番は
    「強く叩いて悪い子だと叱って」と
    「醜い(けど綺麗と言われる)子」とは違う、という自分の差別的な気持ちを叱りつけてでも「あの子と違う私=綺麗ではない私」を「直して」と言っている
    つまりは、「醜い子として生まれ変わりたい」とも読めるし
    また、「醜く見てしまう自分、取り残される不安に駆られる自分」を叱って
    「あの子と違う私」つまりは「綺麗だと言えるあなたと同じ人間」に変えて欲しいとも読めます。

    しかし、この「綺麗だと言えるあなた」もまた、実は「気の毒な子を敢えて『綺麗だと表現する必要がある人間』だと思っている」からこそ綺麗だとわざわざ言うのです。
    実はそこには、周りの差別意識を踏み台にして、自分は違う、という顕示欲も潜んでいます。
    つまりは、この「優しいあなた」も、実は差別意識を持っていて、それを隠す為に「綺麗だ」と表現しているとしたら、かなりの偽善者です。
    この解釈まで入れると、全手の歌詞が皮肉めき、とても辛辣なメッセージを帯びて来ます。

    そして最後
    「優しくなりたい」
    「正しくなりたい」
    「綺麗になりたい」
    という願望がありますが
    優しいのは誰?あなたなのか?醜い子なのか?
    正しいのは誰?あなたなのか?自分なのか?
    綺麗なのは誰?
    醜く見える子なのか?

    一番と二番でも相反する「表と裏」を持つ「私」と
    一番の表の私と、二番の裏の私と
    その両方に対して相反する「あなた」の表と裏
    そして見つめる対象に対して描いている想いもまた一番と二番では相反している。
    それは
    気の毒な子にもなりたくもあり、なりたくもない
    でも
    綺麗と言われる様な子にもなりたくもあり、綺麗と言う側にもなりたくもあり、(偽善ならば)なりたくもない
    そして本当の「優しい人」とは
    こんな風に相手を綺麗だとか醜いとか、正しいとか悪い子だとか
    そんな解釈を周りに「許して存在している」「あの子」こそが「優しい人」そのものなのではないか?
    とさえ思ってしまいます。

    「わたし」というアイデンティティの揺らぎを捉えている様に読めました。

  2. みっこ より:

    米津玄師さんの歌詞はストレートに解釈すると難しくてわからない歌詞が多いです。全体像で楽曲が良くてあまり歌詞を深く考えないことがあります。
    「優しい人」の楽曲の歌詞を強いて解釈したとき個人的な解釈ですが、冷たい心の人格をもたずあたたかい心をもつよう常に人格を高めるという解釈でした。
    人が全てあたたかい心をもっていれば、不遇な思いをする人が社会にいない良い社会となると思います。
    これは個人的な解釈です。

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