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【ACAね×Rin音×Yaffle/Character】歌詞の意味を徹底解釈!人間の二面性を歌う「キャラクター」主題歌。

【ACAね(ずっと真夜中でいいのに。)×Rin音×Yaffle】「Character(キャラクター)」について、歌詞の意味を徹底的に考察および解説していきたいと思います。

 

読みどころ

✔ 三者による豪華コラボ楽曲
✔ 難解な歌詞のフレーズ(すべて)
✔ ダブルミーニングが効いた言葉遊び

 

サルー
サルー

解釈難易度が高い。というより歌詞の余白が大きい部分に仮説を埋め込んで無理やり解釈しました。ACAね×Rin音による独特な歌詞を一緒に見ていきましょう!

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裏の顔と表の顔、周りの人間が知らない自分の本性

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今回紹介していく「Character」は、菅田将暉主演のサスペンス映画「キャラクター」の主題歌。

「キャラクター」にはメインキャストとしてFukase(SEKAI NO OWARI)が起用されており、他にも小栗旬、高畑充希、中村獅童ら演技派と呼ばれる俳優たちが顔を揃えています。

 

はじめ映画の予告を見たとき私は「菅田将暉かSEKAI NO OWARIのどちらかが主題歌を努めるんだろうな」と勝手な推測していたのですが、ふたを開けてみると「ACAね×Rin音×Yaffle」という異質かつ豪華なコラボ。

 

楽曲の中で独特な語彙が飛び交う「ACAね×Rin音」が作詞を担当し、それに加え僕の大好きな藤井風をはじめ多くのアーティストを手掛ける売れっ子プロデューサーの「Yaffle」が作曲に加わるという、知る人が聞いたらワクワクが止まらないコラボです。

 

と御三方の魅力を紹介しているとキリがないので、作品の話に戻ります。

 

まず作詞の主を担当したACAねさんは

逸らしてたぽか生活への脱却も、そろそろ落とし前をつけなきゃ…。隠した上等な感覚も何かしら通わせたくなりました。補い合える存在を見つけたことそれは加速。

と楽曲についてコメントを、同じくRin音さんは

普段よりも奇妙で力強いサウンドにリリックを書いて自分の性格の中の攻撃的な面を全面に出した曲になったと思います!
僕自身、楽曲とMCバトルで活動するように誰もがどこかに二面性を秘めていると思います。

上記のようにコメントを残しています。

 

お二方のコメントと映画、歌詞の内容を照らし合わせると、本楽曲「Character」は『誰もが持っている二面性』を謳っていることが分かります。

裏の顔と表の顔、周りの人間が知らない自分の本性。

どのように歌詞は描かれていくのか。

 

サルー
サルー

楽曲背景を予習したところで、一緒に本題の歌詞を見ていきましょう!相変わらず難易度が高いです。

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歌詞

ジキルがハイド俺がお前をtrace
飲み込まれないようにレース制すべく制す
アイデンティティが唯一我を保つプロセス
なら記憶の奥の方までたどるメス
who am I 統制されるナンバーと脳 この日の国に太陽が沈む頃
少しずつ薄れていく影 内面の嘘に気づきかけてしまう
背後に隠れた魔 痛み隠して何を思うか 朱に交わらぬ主観
我がものにして上がる口元
いいぜ好きにやりな ブレる価値観 優しさと狂気の狭間にある
底の見えぬ闇の中に埋もれてく

キスに逃げて 温い永遠は怖い
母はきっと喜ぶし 暖かい構造 総Hi中止

このギリな人情 生きてる君の
正直なくらい危ない 真面目がほしい
隠した上等 血走った重い通りを
ぶつけられたとて 悪足掻きと合掌

さんざめく群れ 東京の逃避行 失って消えるこれからも
灰に変わる君という君を 明日に残すこのポートフォリオ
どうぞよろしくと神は脱帽 2つ名を飛び回るパスポート
大当たり feel like a jackpot 運命が交差するジャンクション
1894 死神と世に隠れワルツ踊るモルモット 手には塩
見えないghost 己を失した代償
今は触れる揺れるができないでいる 常に今日に情を持って生きている

キスで止めて 温い永遠は怖い
母はきっと喜ぶし 月日は同情 総円満に

このギリな人情 生きてる君の
正直なくらい危ない 真面目がほしい
隠した上等 血走った重い通りを
ぶつけられたとて 悪足掻きと合掌

手におえぬ痛みの中で 自我を保ってる
生々しい 僕がほしい
誰だってゼロからの成長業務
自由な解体 変わったんじゃない隠してた
内心は分かってるくせして まだ手は震えるいつかの行方
後ろ回す前に態度をコピって前に倣え
右も左も分からないまま愛を探した

親も子も二人も 何にも嘘はないけれど
誰にも引き出せない 僕を通わせてく
沿う 汗ばんだ夏が僕へと再生する
ただいま

この義理な心情 生きてる君の
正直なくらい危ない 真面目がほしい
格下上等 血走った思い通りを
ぶつけられたとて 悪足掻きと合掌

作詞:ACAね・Rin音

歌詞の意味・解釈

1番

ジキルがハイド俺がお前をtrace
飲み込まれないようにレース制すべく制す
アイデンティティが唯一我を保つプロセス
なら記憶の奥の方までたどるメス
who am I 統制されるナンバーと脳 この日の国に太陽が沈む頃
少しずつ薄れていく影 内面の嘘に気づきかけてしまう

前章でも述べたように本楽曲の歌詞では「誰もが持つ二面性」について、もっと具体的に言うと「理性で抑えている本能的な側面」についてが謳われています。

 

まず「ジキルがハイド」という言葉から歌詞が展開されていくのですが、ジキルとハイドとはイギリスのスティーヴンソンの小説で登場した言葉で「多重人格」を意味します。

薬で社会的抑圧を解放すると野性的な人格が暴れ出すというお話しです。

 

「who am I(私は誰?)」と歌詞で自問しているように、ジキルハイドのように理性(統制されるナンバーと脳)を裏にしまってしまう(この日の国に太陽が沈む)とどうなっていくのか。

そんな楽曲全容に関わる、あらすじのようなものが冒頭歌詞では描かれているのです。

 

背後に隠れた魔 痛み隠して何を思うか 朱に交わらぬ主観
我がものにして上がる口元
いいぜ好きにやりな ブレる価値観 優しさと狂気の狭間にある
底の見えぬ闇の中に埋もれてく

続く歌詞では「実際に裏の顔が自分を乗っ取っていくさま」が描かれていきます。

 

『朱に交われば赤くなる』

と言って「朱色が入り混じれば赤味を帯びるように、人は付き合う人の良し悪しによって善悪どちらにも感化される」といった人間の特性を捉えた言葉がありますが、歌詞に起用されている<朱に交わらぬ主観>はそれとは相対して何ものにも染まらない心底の部分(裏の顔)を示しています。

理性で抑えている野生の部分だからこそ、朱に交わりようがないんですよね。

 

主人公は「好きにやりな」と言って自分の中に眠る野生に身体を差し出していく。

 

サルー
サルー

情景が示していることは「闇の部分が顔を出すこと」1つなのに、それを表現する様々な語彙がすごいです…!

 

キスに逃げて 温い永遠は怖い
母はきっと喜ぶし 暖かい構造 総Hi中止

ここでRin音さんパートからACAねさんパートに変化し、メロディの雰囲気も歌詞の情景もガラッと変わります。

 

2面性を描いていく本楽曲は、ところどころに『愛』といったもう1つのテーマが描写されていきます。

 

まず「キス」という言葉は上記1番にも後ほど紹介する2番にも登場してくるのですが、両者で意味が異なります。

1番においては「本能的に肉や愛を求める意味でのキス」なのでしょう。

 

「温い永遠は怖い」とありますが、温いを「愛情があるから感じるもの」だと仮定しておけば、永遠に相手を想い合う愛情は怖いといった意味を持つように解釈することができます。

 

永遠の愛こそが社会の道理だから、母はきっと喜ぶけれど「こうしなきゃ!」といった社会的に形成された考え方は、言ってしまえば朱に交われば赤くなるに当てはまるような揺れ動く事柄であるため、怖いのです。

 

逆に言えば「キスを求めること(身体関係)」は、本能的に求める行為であるから朱に交わることはない。いわば裏切られることがないもの。

 

だからこそ世間一般的な温かい一般的な構造より、本能で交わる関係を欲しているのかなと。

 

サルー
サルー

歌詞の余白が大きいため、各々の解釈幅はあると思いますが、本能×理性を交差させ、相対的に本能的な美しさを歌っていることは間違いないのかなと思います。

サビ1

このギリな人情 生きてる君の
正直なくらい危ない 真面目がほしい
隠した上等 血走った重い通りを
ぶつけられたとて 悪足掻きと合掌

サビは「多重人格の対話」が描かれています。

1番Bメロの「キス~」に関わるような相手との対話かなとも考えましたが、どちらかと言うと「眠る野生に身体を渡した主人公が客観的に自分を見て心情を歌っている」に近いのかなと思います。

 

本能的な側面に身体を明け渡してみたから「このギリな人情」。そしてそれは何よりも欲求に「正直」、だけど社会的には危険な人格だから「危ない」。

 

「真面目が欲しい」のは本楽曲において「本能的な側面」を美しいと歌っている節があるから。野生に忠実なさまはきっと何よりも真面目であることの表れ。

 

また「隠した上等」と「血走った重い通り」はダブルミーニングになっています。

  • 「隠した上等」は「格下上等」
  • 「血走った重い通り」は「思い通り」であり「重い道理」

 

繰り返しになりますが本楽曲においては本能的な側面(もう1つの人格)を良いものとして捉えているため、いつも隠れている野生を「隠した上等」として高貴に扱っている。だけど相対的に反社会的でもあるから「格下上等」でも意味が通ります。

 

また「思い通り」は血走った自分(本能的な自分)が、自分の思うがままに行動をするさまを、「重い道理」はそれを見た社会(もしくは理性的な側面の自分?)が血走った眼でルールをぶつけてくるさまを掛け合わせているのでしょう。

 

だからこそ「重い通り」をぶつけられたことで悪足掻きと合掌。

抑圧している感情を表に晒しているだけだから、それは悪足搔き(今さら試みても意味がないこと)になり、合掌(手を合わせていく末を見守る)ことしかできない。

 

サルー
サルー

本能に基づく上等なもう1つの顔は、誰にも止めることができない。ある意味何よりも強いキャラクターなわけです。

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