さよならはいつしか 確実に近づく
校舎も駅も古びれてゆく 私達も同じことだってちゃんと分かっちゃいるよ
ここでは一番同様、《校舎》や《駅》を例にとって命の終わりを歌っています。
色褪せていく校舎。朽ちていく駅。
自分たちも同じだってことは痛いほどわかっています。
だけど、今の幸せがいつか終わってしまうなんてのはあんまりだし、どうしようもなく悲しいのです。
サビ2
今宵も明かりのないリビングで 思い出と不意に出くわしやるせなさを背負い
水を飲み干しシンクに グラスが横たわる
空っぽ同士の胸の中 眠れぬ同士の部屋で今
水滴の付いた命が今日を終える
解説もないまま 次のページをめくる世界に戸惑いながら
夜中にふと昔の出来事を思い出し、懐かしさを覚えるとともに戻れない過去にやるせなさを感じる。
そんな誰もが体験したことあるような場面にこの《思い出と不意に出くわし》という表現はぴったりはまっている気がします。
《水滴の付いた命が今日を終える》
この水滴はさっき水を飲んだ時に口元に零れた水滴なのか、はたまたやるせなさから溢れてきた涙なのか、その真相はわかりません。解釈の余白が残された粋な表現です。
そして《解説もないまま 次のページをめくる世界に戸惑いながら》という最後の表現もまた美しい。
ここまでの人生の解説もないまま、月日は無情にも私たちを置き去りにして流れていきます。
結局私たちは何も分からないまま、突きつけられた新しい一日を生きていくほかありません。
このあたりの綺麗で鮮やかな表現からは藤原さんの歌詞の魅力を感じますね…
ラスサビ
今宵も鐘が鳴る方角は お祭りの後みたいに鎮まり返ってる
焦りを薄め合うように 私達は祈る
似た者同士の街の中 空っぽ同士の腕で今
躊躇いひとつもなくあなたを抱き寄せる
別れの時まで ひと時だって愛しそびれないように そう言い聞かすように
必ず人間には死が訪れます。
どれだけ幸せな暮らしを送っていようと、さよならの時は確実に近づいてきます。
それでも二人は祈り、抱き合いながら眠りにつくのです。
いつか死んでしまうことなんかわかっているけれど、別れの時など目の端にも映らないように。
別れの時までひと時だって愛しそびれないように。
そう言い聞かすように。
いつか死んでしまう人間の、ささやかで愚かで、最高に愛おしい営みを歌った楽曲。
歌詞のテーマは残酷ですが、やさしい温もりを放つ、髭男らしい素敵なナンバーでした。
【Official髭男dism/アポトーシス】
歌詞の意味の解釈でした!
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コメント
深すぎる歌詞に、改めて聡ちゃんの稀有な才能を思い知らされました。
歌詞の内容が、あまりにも突き刺さり、でも、老いというものをすごく綺麗に表現してくれてる優しさも同時に感じました。素晴らしい解釈ありがとうございました
本当に、心に響きました。気持ちは、走っているのに、身体は、ついていかず、もどかしい毎日。つい口論となってしまい後悔。自分たち夫婦に重ねて、涙しました。
最後の方の解釈は違いました。
歳を重ねて行って、死が怖いと思うのは、若い人からの目線だからじゃないでしょうか?
いつかは死が来るのは、歳をとればとるほどわかっています。
どんなに元気でも、段々と思うように動かなくなる身体や手足、お迎えを何となく迎える準備は、誰しも出来ていて、余生を楽しむようになると思いますよ。
Mステを見て泣きそうになりました
2番のAメロが悲しくて・・・
もうひとつの解釈を書きます。
この曲の語りの主体である「私」とは「細胞(遺伝子)」です。
この詩は人の意識や魂を超えたところにある
細胞という存在が人に語りかけている唄なのだと思います。
魂と神との中間の存在ともいえる「細胞(遺伝子)」が
細胞の集合体であり無知のまま老いゆく人間にやさしく「ダーリン」と語りかけている死と再生を巡る命の交響詩が本作品なのです。
「訪れるべき時」は人の「死」
しかし「死」により人の意識や細胞は滅してしまいますが、
遺伝子は受け継がれ命は継承される。
未来へとひた走り次のページがめくられるのです。
死と再生もしくは永遠の命というテーマが
新鮮に荘厳に織り込まれていて
私たちの魂が無性に動かされてしまうのだと思います。
本当に美しい曲です。
さとっちゃんが20代最後の年をかけてつくった曲だと知って、感動しました。
コロナ時期、考えさせられた歌詞です。クソ旦那で気持ち的に低迷期ですが終わりを考えたらやっぱ悲しいです。クソ旦那はこの歌に感謝しないといけないな。
細胞が生まれた時からプログラムされている死、先日母が亡くなった時に方丈さんからのお話で、昔、一休僧正は始まりは終わりの始まり、嬉しくもあり悲しくもありと唱えていたと話してくれました。アポトーシスという概念が無くとも通じるところがありますね
自分はこれを聴いて、癌の闘病生活を送っていた母親を思い出したね。
若い世代の方が、人の世の理を悟って謳うと言うのだろうか。余命宣告を受けた誰かとの思い出、もしくはそのような主人公が登場する物語を描いたと思えるんだが。
先日、妻が旅立ちました。
病気がわかってから1年半、「訪れるべき時」をずっと意識しながらふたりで過ごしてきました。
その間、30年あまり一緒にいた時間を振り返りながら、新しい思い出もつくっていきました。
この曲は今の私に響きすぎるほど響き、痛みすら感じるほどです。
バツイチ人生の後半に訪れたある男性との出逢い。
彼は35年連れ添った奥様を希少ガンで亡くしたそうです。
沢山の想い出を話してくれましたが、
病状を表に出さず、弱音も口に出さず、ある朝突然に旅立った彼女
きっとこの歌詞の冒頭のように心の中で呟いていたのだと、、、
心を揺さぶられました。
彼とのロマンスは人生柄続きはしないことを、、、
って、、、考えさせられ
その後にapoptosis
こんなにも人の心を揺らす音楽をありがとうございます。
わたし自身が癌です。
多分治ることはないとわかっています。
子供が海外の学校にいて、今回は少し無理をして子供達に会いに行きました。
長い飛行機、慣れない旅先にかなり体が疲れて、また少し進行を加速させちゃったかな、大丈夫だろうか。など考えていました。
子供達がみんな成人するまでは難しそうだし、いなくなった時のために子供達に手紙を書いておこう、と、そう思っていたことろ、飛行機の機内でこの曲を聴きました。冒頭のところ、本当にそのまま旦那さんに伝えようと思っていた言葉でした。1人でこっそり泣きました。
死別はお互いが悲しむことはできないし、20歳も超えた男女が「ロウソクの増えたケーキ」のロウソクを吹き消すイメージは不自然です。藤原聡がそんなチープな失態をおかす作詞家だとは思えません。
「誰彼に泣き縋りそうになるけど」も、「ダーリン」が恋人ならかなり軽薄な印象を与えます。
「こんな話をそろそろしなくちゃならないほど素敵になったね」と、長く成長を見守ってきたような歌詞からも、「躊躇いひとつもなくあなたを”抱き寄せる”」と、「私」が自分より小さな相手に対峙していることからも、この二人の関係は自明でしょう。
さらに細胞を共有する唯一無二の関係となれば、もはや答えをここに書くのも憚られます。
藤原氏は恐らく重めの恋愛ソングに見えるようにして、恋愛に固執する人間と愛を広義で考える人間とを分別しようとしたのではないでしょうか。
さらに、親離れ子離れ(答えを書いてしまった)を真剣に考えて受け入れている人間かどうかも、この歌詞で選別できると思います。
とかく現代人は、愛がなんなのか受け入れもせずに恋愛に固執していて病的だと思います。この歌詞のカタルシスは、固定観念と恋愛病質から解き放たれた時に本当に感じられるものだと、私は思います。
貴重なコメントありがとうございます。
おっしゃる通り親子関係として捉えた方が自然な個所もあり、私自身「ローソクの増えたケーキ」に関しては「私」ではなく息子、あるいは孫といった下の世代の親族の誕生日であると考えて「誰かの誕生日である」とさせていただきました。
ただ私も恋愛至上主義の風潮には否定的ですが、現に恋愛に絡めて受け取ることでより深い共感を得られる人が多くいる以上は、この楽曲に関しては藤原さんは「聴き手の感性を分別しようとした」というよりは「あえて聴き手に解釈の幅を残した」「夫婦愛としても親子愛としても捉えられるようにした」のではないかと個人的には推測しています。
確かに、「他に解釈の余地はない」とする私の言い分はいささか偏狭に過ぎますね。藤原氏本人の意向を知るべくもないのに、「万人受けしないかも」という氏の言葉と私的感情に引っ張られ過ぎてしまいました。
ご指摘ありがとうございます。これからも素敵な日本語歌詞の紹介とご解説、楽しみにしております。
こちらこそ記事の中では恋愛に偏った解釈にしてしまいがちでしたので、今後過度に限定的な考察にならないよう用心いたします。
たいへん興味深いご意見をありがとうございました!
「素敵になったダーリン」って、パートナーのことじゃなくて、子供(後輩・弟子もあり)のことでしょ。
”こども”だった時には、俺が死ぬことなど話はできなかったけど、素敵な大人になったから、 「俺の死」について話すことができる。
「俺が死ぬことは気にするな。今度は君たちが柱になるのだ」
煉獄さんじゃんwww
髭ダンをあまり知らないおばさんです
この曲がリリースされた頃に主人が逝ってしまいました
主人の誕生日をお祝いした1週間後、1年の癌との闘病の中、サヨナラも言えない程の急変でした
あれから5ヶ月たちましたが、悲しみ寂しさに押しつぶされそうで、主人は何か伝えたかった事があっただろうと毎日毎日あの日から、いつかくるその時について、話していなかった事を後悔していました
たまたま関ジャムでこの曲を知り、この考察に今日出会いました
この曲と、この考察こそ、主人からのメッセージの様に感じました
ありがとうございました
永く寄り添ったパートナーを想った歌ですよね。
親子というよりは夫婦を想起させると同時に、プログラムされた死を運命のようにも感じました。
自分に置き換えて考えてみたら、オトンやオカンが、年老いた時に真っ先に考えるのは夫婦双方のことだと思うんですよね。オトンにはオカンが、オカンにはオトンという最愛の人が居たから、今日に至るまでやってこれたんだと思います。
歌詞にあるような環境でその立場が来たら自分も相手にそう言うのかな、思うのかなと考えながら聴くと、込み上げるモノがあります。
まぁ、パートナー居ないんですけどね笑
色ゝな考察ができ、大好き楽曲です!
僕は〝水滴の付いた命が今日を終える〟という歌詞から、人間は水分が無ければ存在出来ないので〝生きている命〟ということかな、なんて考察してみました。
僕の身の回りには、嬉しいことに、逝ってしまった人がいません。
それでも、ここまで自身の感情を移入させてくれたこの楽曲に感動しました。
ありがとうございました。