ACAねさんの人生観が滲み出ている!?
【ずっと真夜中でいいのに。(ずとまよ)】の
「グラスとラムレーズン」について
歌詞の意味を徹底的に
考察および解説していきたいと思います。
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楽曲の基本情報
今回紹介する「グラスとラムレーズン」は、アルバム「潜潜話」の収録曲。グラスと氷を合わせた音、ACAねさんが唇震わす音、「どーしよっCAね」というラストフレーズなど、遊び心満載のナンバーに仕上がっています。
とはいえ、子供っぽい作品になっているわけではなく、むしろ大人の色気すらも感じさせられる楽曲になっています。音楽もそうですが、ACAねさんの特徴的な息遣いがそれを演出しているのでしょう。
音楽に関して、改めて引き出しが多いな~と感じました。まるで音楽の研究をしているかのよう。
楽曲名「グラスとラムレーズン」とは
「グラスとラムレーズン」
文字列だけを見ても解釈することは困難ですね。
ACAねさんは、本楽曲について
・小・中学校の時いかに心配されないで1人になるか考えてて寝たふりをしていたそんな歌。
と、2019年夏に行われた〜水飲み場にて笑みの契約〜のMCで話していたそうです。
- グラス→グラスの音を使ったメロディー
- ラムレーズン→ACAねさんの昔話
それを包括して
「グラスとラムレーズン」
といったところでしょうか?
本題の歌詞に迫っていきましょう。
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歌詞
誓いに頼れない
その場限りシェア次第
グラスとラムレーズン
躱すタイプのあの子に
耳障りだと言われた鼻歌
泣き喊る白虎隊
黄ばんでないレコードには
カラメルで色をつけて抱きしめた嫌われた癖は歌わせるように
気付かないうち
ロックンロールに鳴って逆に良かった
くだらないとも言えない緑の夕暮れは
乏しい知識で侮りあっては手繋ぎ合った確かにと認め合える隙間へ
大人になって出会ってみたい
どの空間時間帯にいたって
繋げなかったような悲しみだって
それは違うと守りきれるまで
子供になって出会ってみたい
今ではない出会いは儚くて
忘れてしまうようなお別れの前に黙り込んでたら
くだらない距離だけが
ぎこちなく焦ってく
ぎこちなさが尖ってく確かにと認め合える隙間へ
大人になって出会ってみたい
どの空間時間帯にいたって
繋げなかったような悲しみだって
それは違うと守りきれるまで
子供になって出会ってみたい
今ではない出会いは儚くて
忘れてしまうようなお別れの前にどーしよっかね
全てプラス思考で
歌い出してね
耳障りだって
気付けないくらいに必死こいて笑い逃げる
態と割と意識的にひとりでいたいんだよどーしよっかね
全てプラス思考で
歌い出してね
耳障りだって
気付けないくらいに必死こいて笑いあげる
態と割と意識的にひとりでいたいんだと
思われるように啖呵切って 寝るふりして
啖呵切って 練るふりして
啖呵切って 寝るふりして
啖呵切って 練るふりして啖呵切って 寝るふりして
啖呵切って 練るふりして
啖呵切って 寝るふりして
啖呵切って 練るふりしてどーしよっCAね
作詞作曲:ACAね
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歌詞の意味・解釈
1番
誓いに頼れない
その場限りシェア次第
グラスとラムレーズン
躱すタイプのあの子に
耳障りだと言われた鼻歌
泣き喊る白虎隊
黄ばんでないレコードには
カラメルで色をつけて抱きしめた
本楽曲は
ACAねさんの昔話。
そう解釈すると、あえて細かく曲解を生み出す必要はないのかなとも思いましたが、いつも通り歌詞に使われている単語や言い回しは面白いものが多いです。
泣き喊る白虎隊→ACAねさん
白虎隊とは本来、
会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊。
のことを指します。
しかし、中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者や幼少組として13歳の少年も加わっていたそう。
つまりは
中学生の友達に鼻歌を馬鹿にされて泣きじゃくった
というエピソードを表すのではないでしょうか。
また「黄ばむ」という言葉。これは本来、シャツなどに年期が入った際に使われることが多いのですが、歌詞中では「レコードが黄ばむ」と、使い古したレコード(音声記録)といった意味で使われており、ビンテージがかかって味がでたレコードのことを示しています。
だから黄ばんでないレコードを
カラメルで色をつけて抱きしめた
(一気に使い古すくらいの勢いで)
のでしょう。
未熟さを取り払うように、必死に音楽と向き合っていた情景が想像されます。
嫌われた癖は歌わせるように
気付かないうち
ロックンロールに鳴って逆に良かった
くだらないとも言えない緑の夕暮れは
乏しい知識で侮りあっては手繋ぎ合った
嫌われた癖とは
さきほどの
耳障りだと言われた鼻歌
のようなものを示すのでしょう。
言われた瞬間は泣きじゃくってしまうような自分を否定するような言葉も、ロックンロール(音楽)に昇華されていったのです。
緑の夕暮れとは、解釈が難しいですね。
夕暮れに芝の緑が燃えるような色に染まっていたのでしょうか?真意は分かりませんが、とにかく「くだらない」と卑下するには、あまりにも勿体ない絶景だったのではないでしょうか。しかし、“乏しい知識で侮りあって”とあるように、大人になる前の当人たちは、その感動に気付けなかったのかも知れません。
ここは人によって解釈幅が広いと思いますが、私はこの部分の歌詞を見ると、かなりノスタルジック気分になります。
サビ1
確かにと認め合える隙間へ
大人になって出会ってみたい
どの空間時間帯にいたって
繋げなかったような悲しみだって
それは違うと守りきれるまで
子供になって出会ってみたい
今ではない出会いは儚くて
忘れてしまうようなお別れの前に
このサビでは
- 大人ならではの出会い
- 子供ならではの出会い
が描かれているのですが、これがまた感慨深い。
子供の出会い(特に小・中学生)というのは、たまたま住んでいる地域が同じで、同じ学校になったり、たまたま家が近くで友達になったりと、あくまでも「偶然の出会い」がメインになります。しかし、それからの出会い、つまりは大人の出会いでは、目指すものが同じだったり、夢や特技が同じだったりと、どちらかと言うと「必然的な出会い」が多くなります。
だから歌詞にあるように
確かにと認め合える
そんな関係は子供より大人の方が築きやすいです。
しかし、子供の出会いは「偶然」の部分が多い分、ちょっとした環境や条件が変わるだけで、離れ離れになってしまうものです。
だから
- 今ではない出会いは儚くて
- 忘れてしまうようなお別れ
と歌詞にあるように
別れの儚さを味わうのは、子供の頃が多いです。
そのため
- 大人になってからの出会い
- 子供のころの出会い
は、どちらも大切で愛おしいものなのです。
「大人の出会いの希望」「子供の出会いの儚さ」について、改めて感じさせられた。具体的に言うと、子供の頃のどうでもよかった出会いたち、関わらなかった種の人たちを、もっと大切にしても良かったな、関係を築いてみても面白かったのかな、など考えさせられました。
2番
黙り込んでたら
くだらない距離だけが
ぎこちなく焦ってく
ぎこちなさが尖ってく
話さなくなった人や、もとより話さない人との関係って、近くにいるだけで何か気まずかったり、嫌な感じがしたりしませんか?
結局のところ「話さなくていい」と判断を下している時点で、それは「くだらない距離」なのですが、はじめはそのくだらない距離があくのに「ぎこちなさ」を感じますよね。
2番の詩では、そのような、きまずい間柄のことを歌っているのではないでしょうか。
<サビ2はサビ1と同じ為、解釈は割愛>
3番
どーしよっかね
全てプラス思考で
歌い出してね
耳障りだって
気付けないくらいに必死こいて笑い逃げる
態と割と意識的にひとりでいたいんだよどーしよっかね
全てプラス思考で
歌い出してね
耳障りだって
気付けないくらいに必死こいて笑いあげる
態と割と意識的にひとりでいたいんだと
思われるように啖呵切って 寝るふりして
啖呵切って 練るふりして
啖呵切って 寝るふりして
啖呵切って 練るふりして啖呵切って 寝るふりして
啖呵切って 練るふりして
啖呵切って 寝るふりして
啖呵切って 練るふりしてどーしよっCAね
この3番は全体的に
いかに心配されないで
1人になるか考えてて寝たふりをしていた
という、ACAねさんのエピソードに直結しているのではないでしょうか。
それを踏まえて歌詞を見ると情景を容易に想像できますよね。
可愛く締められる
どーしよっCAね
も、「どうしよACAね」と、ACAねさんが過去に葛藤していた事柄であったことを裏付けています。
感想
かなり個人的な人生観や、考え方のこじつけが多くなってしまいましたが、リアルな対人関係や出逢い別れについての詩など、共感できる部分は多々あったのではないでしょうか?
個人的にサビの詩がかなり共感深く、ACAねさんの人間らしさと言いますか、卓越した価値観・捉え方に魅力を感じました。
【ずっと真夜中でいいのに。/グラスとラムレーズン】
歌詞の意味の解釈でした!(‘ω’)
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