【米津玄師】の「優しい人」について、歌詞の意味を徹底的に考察および解説していきたいと思います。
✔ 「脊椎がオパールになる頃」との深い関係
✔ 世に出すことを躊躇した直接的な歌詞
✔ 主人公の純真無垢な願い
いじめや差別で虐げられている人を描くという、ある種のタブーを犯した楽曲。一語一語丁寧に考察しましたので、最後までお読みいただけると幸いです。
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「脊椎がオパールになる頃」より
今回紹介していく「優しい人」は、米津玄師の5thアルバム「STRAY SHEEP」に収録された楽曲。
虐げられる人とそれを傍観する自分。
米津さんの楽曲としては珍しく、かなり直接的な表現で現実を描いた楽曲となっているように感じます。
米津さんはアルバムについてのインタビューで
「優しい人」という曲をつくり終えたときは、はたしてこれはアルバムに入れていいのだろうかと、けっこう深く考えました。場合によってはものすごく人を傷つけてしまう曲なんじゃないかという懸念があって。曲の中に、分かりやすく虐げられている人が出てくるので。現在進行形で同じような目にあっている人がこの音楽を聴いたらと考えると……。表現にまつわる責任を持つことに、自覚的にならざるをえない曲だったかもしれない。
https://www.uta-net.com/song/288879/
と発言されています。
というのも、「優しい人」はもともと米津さんの2019年の全国ツアー「脊椎がオパールになる頃」で披露される予定だった曲。
当時はもっと間接的で解釈に幅のある歌詞だったそうですが、それはポップミュージシャンとして負うべき責任から逃げることになるのではないか、という考えから直接的で鮮烈な歌詞に変更したそうです。
当初の「あなたの脊椎がオパールになる頃 私はどこにいるでしょう」という歌い出しも現在のものに書き換えたのだとのこと。
米津さんにとって「優しい人」は、「何かを表現することは誰かを傷つけてしまうことだ」という戒めの意味を持った楽曲なのです。
楽曲のテーマについて
先ほど紹介したインタビューにて米津さんは「優しい人」について、
小学校で道徳の授業ってあるじゃないですか。自分が小学生のとき、教師に、差別はいけないことだと教えられた。同時に、差別されている人間をかわいそうだとも思ってはいけないと言われたのを、ものすごく強く覚えていて。小学生だった自分は、よく理解できなかったんですね。だって現にかわいそうじゃないか。本来なくてもいい傷をつけられて、尊厳を踏みにじられているのだから。
かわいそうだと思ってはいけないという「正しさ」を感じ取れない自分は、もしかしたら悪い人間なんじゃないか、人間として欠けた存在なんじゃないかと、ものすごく思い悩んだんですよね。この曲の基本的な気分として、そのときの記憶が強く残っているかもしれないです。いまになれば、そもそも内側に悪を抱えていない人間は一人もいないんだと思えるんですけど。
ともコメントされています。
人権教育において、教育者たちは生徒に「差別はいけない」と教えると同時に「かわいそうだとも思ってはいけない」のだと教えを説きます。
きっと差別によって虐げられている人もそれを望まないだろうし、「かわいそうな人がいる」と誰もが認識している構図を無くさない限り本当の意味で差別は解決しないから。
しかしながら小学生が「かわいそうだとも思ってはいけない」という考え方を理解するのはあまりに難しいようにも思います。
大人になった今でさえ、それを理解して生きられていると自信をもって言える人などそういないでしょう。
もしかしたら「かわいそう」と思ってはいけないのだと理解できないでいるのは自分だけなのかもしれない。
自分だけが悪い人間なのかもしれない。
誰もが心に悪を抱えているなんて思っていなかった、当時の米津さんは思い悩みます。
「優しい人」の歌詞には「〈かわいそう〉なんて思わない《優しい人》になりたい」という、当時の米津さんの少年の様な純真な願いが込められているのです。
楽曲の背景を確認したところで本題の歌詞を考察していきます。
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歌詞
気の毒に生まれて 汚されるあの子を
あなたは「綺麗だ」と言った
傍らで眺める私の瞳には
とても醜く映った噎せ返る温室の 無邪気な気晴らしに
付け入られる か弱い子
持て余す幸せ 使い分ける道徳
憐れみをそっと隠した頭を撫でて ただ「いい子だ」って言って
あの子へ向けるその目で見つめてあなたみたいに優しく
生きられたならよかったな周りには愛されず 笑われる姿を
窓越しに安心していた
ババ抜きであぶれて 取り残されるのが
私じゃなくてよかった強く叩いて 「悪い子だ」って叱って
あの子と違う私を治してあなたみたいに優しく
生きられたならよかったな優しくなりたい 正しくなりたい
綺麗になりたい あなたみたいに作詞:米津玄師
歌詞の意味・解釈
1番
気の毒に生まれて 汚されるあの子を
あなたは「綺麗だ」と言った
傍らで眺める私の瞳には
とても醜く映った
「虐げられる人とそれを眺める自分」という構図を描いた歌詞から楽曲はスタートします。
気の毒な環境で生まれて汚されるあの子。
それは恐らく人種的な差別であったり、あるいは身長や心の性などの生まれながらの特性によりいじめを受ける人を表現しているのではないでしょうか。
こうして文字にして並べることさえ躊躇してしまうタブーな内容。不快に思われた方がおられたら申し訳ありません。
米津さんがアルバムにこの曲を収録することをためらったと言うのもよくわかります…
そして虐げられる誰かを「綺麗だ」という「あなた」。
それは米津さんの小学校の話でいえば、差別について教える先生にあたるでしょう。
「綺麗だ」というのは決して虐げられる様が「綺麗だ」なんていう皮肉を言っているのではなく、差別やいじめなんて全く意識していない心からの賛辞。
「かわいそう」なんて思わずに虐げられる人と接するという、いうなれば道徳的にただしい在り方です。
それを眺める自分は「綺麗だ」なんてとても思えず、現にかわいそうなものとして認識しています。
制作当初の歌い出しが「あなたの脊椎がオパールになる頃 私はどこにいるでしょう」だったことを考えると、いかに書き換えられた歌詞が直接的な表現であるかがわかります。
噎せ返る温室の 無邪気な気晴らしに
付け入られる か弱い子
持て余す幸せ 使い分ける道徳
憐れみをそっと隠した
「噎せ返る温室」
それはあえて具体的な言葉にするならば、健全な雰囲気ではない教室や職場。あるいはもっと広くとらえれば、しがらみだらけの社会全体のことなのかもしれません。
その気晴らしに利用されるか弱い子。
幸せを持て余して、道徳を好き勝手使い分けて誰かを虐げるいじめっ子。
主人公はその様子を眺め、不憫に思いながらも「正しい人」であるために憐れみの感情をそっと隠すのでした。
頭を撫でて ただ「いい子だ」って言って
あの子へ向けるその目で見つめて
虐げられている状況にはあえて触れることなく、ただ「いい子だ」と言ってか弱い子を守ってあげられる人物。
「守ってあげる」という表現ももはや適切ではないのかもしれません。
差別なんか抜きにして、あの子へも分け隔てなく眼差しを向けることのできる人物。
それがこの楽曲に登場する「あなた」です。
主人公は、憐れみを捨てることのできない「正しくない」自分にもどうか同じように接してほしいと願っています。
そこには、「自分だけが悪い人間なんじゃないか」という当時の米津さんが抱いていた不安が投影されているように思います。
サビ1
あなたみたいに優しく
生きられたならよかったな
サビでは極めて簡潔に、ただ「あなたみたいに優しく生きられたらよかったな」という願いが綴られています。
自分だけが正しくないのかもしれない。
人知れずそうして思い悩んでいた少年。
あなたみたいに生きられたら自分も正しくあれただろうか。
そんな純真な少年の想い。
タイトルの「優しい人」というのはまさしく楽曲中の「あなた」を指しており、主人公の憧れる人物像を描いているのです。
2番の歌詞ではさらに直接的な言葉で、いじめを傍観する自分の醜い心境が描かれていきます。
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コメント
私は全く違う解釈をしました。
一番で「わたし」が醜いと見てしまう気の毒な子を、綺麗だと言える「優しい人」に憧れる心を表し
「頭を撫でてただ『いい子』だと言って」
「あの子に向けるその目で見つめて」
自分もあなたと同じ「仲間になりたい」
という前向きな気持ちにも読めます。
しかしその裏で
「気の毒な子を醜く見ている自分」もまた「綺麗だと思えない醜い子」であって
そんな自分のありのままを「あの子に向ける目と同じ目線で肯定して欲しい」
つまりは自分も「醜いけれど綺麗(と言われる)子」になりたい、という意味にも
読めます。
逆に二番は
「強く叩いて悪い子だと叱って」と
「醜い(けど綺麗と言われる)子」とは違う、という自分の差別的な気持ちを叱りつけてでも「あの子と違う私=綺麗ではない私」を「直して」と言っている
つまりは、「醜い子として生まれ変わりたい」とも読めるし
また、「醜く見てしまう自分、取り残される不安に駆られる自分」を叱って
「あの子と違う私」つまりは「綺麗だと言えるあなたと同じ人間」に変えて欲しいとも読めます。
しかし、この「綺麗だと言えるあなた」もまた、実は「気の毒な子を敢えて『綺麗だと表現する必要がある人間』だと思っている」からこそ綺麗だとわざわざ言うのです。
実はそこには、周りの差別意識を踏み台にして、自分は違う、という顕示欲も潜んでいます。
つまりは、この「優しいあなた」も、実は差別意識を持っていて、それを隠す為に「綺麗だ」と表現しているとしたら、かなりの偽善者です。
この解釈まで入れると、全手の歌詞が皮肉めき、とても辛辣なメッセージを帯びて来ます。
そして最後
「優しくなりたい」
「正しくなりたい」
「綺麗になりたい」
という願望がありますが
優しいのは誰?あなたなのか?醜い子なのか?
正しいのは誰?あなたなのか?自分なのか?
綺麗なのは誰?
醜く見える子なのか?
一番と二番でも相反する「表と裏」を持つ「私」と
一番の表の私と、二番の裏の私と
その両方に対して相反する「あなた」の表と裏
そして見つめる対象に対して描いている想いもまた一番と二番では相反している。
それは
気の毒な子にもなりたくもあり、なりたくもない
でも
綺麗と言われる様な子にもなりたくもあり、綺麗と言う側にもなりたくもあり、(偽善ならば)なりたくもない
そして本当の「優しい人」とは
こんな風に相手を綺麗だとか醜いとか、正しいとか悪い子だとか
そんな解釈を周りに「許して存在している」「あの子」こそが「優しい人」そのものなのではないか?
とさえ思ってしまいます。
「わたし」というアイデンティティの揺らぎを捉えている様に読めました。
米津玄師さんの歌詞はストレートに解釈すると難しくてわからない歌詞が多いです。全体像で楽曲が良くてあまり歌詞を深く考えないことがあります。
「優しい人」の楽曲の歌詞を強いて解釈したとき個人的な解釈ですが、冷たい心の人格をもたずあたたかい心をもつよう常に人格を高めるという解釈でした。
人が全てあたたかい心をもっていれば、不遇な思いをする人が社会にいない良い社会となると思います。
これは個人的な解釈です。