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【ヨルシカ/雨とカプチーノ】歌詞の意味を徹底解釈!エルマの想いが胸を貫く。

【ヨルシカ】

「雨とカプチーノ」について

歌詞の意味を徹底的に

考察および解説していきたいと思います。

詩書きとコーヒーのアンサーソングであり、

エルマ目線で綴られる本楽曲。

今回もかなり感慨深い内容になっています。

是非、最後までご覧ください。

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楽曲の基本情報

今回紹介していく「雨とカプチーノ」

2019年8月28日発売のアルバム「エルマ」収録曲。このアルバムは前作「だから僕は音楽を辞めた」の主人公の青年(エイミー)から送られてきた手紙に影響を受けた女性、エルマが手がけたという設定の楽曲14曲が収められています。

つまり、アルバム「エルマ」収録曲の1つである「雨とカプチーノ」は、エルマ目線でエイミーに対する想いが綴られていきます。

 

上に掲載しているMVは、
ぽぷりかが監督を努めており、

カフェを舞台に、エルマの夢をアニメーションで表現した作品

となっているそうです。

この「エルマの夢」という部分に焦点を当てると、この歌の背景やエルマの想いがビシビシと伝わってきて、本当に感慨深いものになります。

 

まず、MVを見て頂くと分かるように

エルマとエイミーが一緒に音楽をしている。

そんな場面が所々に散りばめられています。
(2:00以降のMVでその情景が色濃く描かれています)

ここがきっと「エルマの夢」ひいては希望だったり切実な願望を映しているのでしょう。

 

そして、今までの楽曲を追っていたファンは既に「あっ!」と勘付いていると思いますが

元々、二人は一緒に音楽をしていました。

(ピンと来ない方は別記事「だから僕は音楽を辞めた【考察】」に目を通して頂けると、ある程度把握できると思います。)

 

つまり、ここまでを総じていうと、
エルマの夢とも言える願望は

エイミーと音楽をしていた昔に戻りたい。

といった内容であることが推測される。

また、この願望はタイトルとも密接してきます。

サルー
サルー

私は「エルマの夢をアニメーションで表現した作品」という概要を目の当たりにして、胸が締め付けられるような感覚に襲われました。なぜなら「だから僕は音楽を辞めた」の収録曲で散々言ってきたように、エイミーもエルマと音楽をしていた時間を大切に想っていたからです。

「心に穴が空いた」といい今作といい、エルマの想いが鮮明に伝わってきて、感動しちゃいます。

 

では、楽曲考察に移っていきましょう。

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楽曲名「雨とカプチーノ」とは

「雨とカプチーノ」という本タイトル。

結論から申し上げますと

「過去に蓋をして前に進んでいく」

というメッセージを持つと解釈致しました。

サルー
サルー

複数パターン考察しましたが、私自身の中ではこの仮説が最も腑に落ちました。この解釈に至る為には「雨」と「カプチーノ」をそれぞれ紐解いていく必要があります。

 

まず「雨」に着目。

ヨルシカの世界観における「雨」は、別タイトル「六月は雨上がりの街を書く」という楽曲で

想い出の中でしか見えない 六月の雨上がりの中で

割り切れないものを知ってたんだろ
深い雨の匂いだって忘れるだけ損なのに

とあるように

「思い出を想起させるもの」

「憂鬱や悲嘆を表すもの」

という意味を持つことが判明しています。

つまり、

「雨」=「過去を想起した結果流れる涙」

といった解釈でokです。

 

続いて「カプチーノ」に着目。

これは本来、イタリアで好まれているコーヒーの飲み方の1つで、陶器のコーヒーカップに注いだエスプレッソに、クリーム状に泡立てた牛乳を加えたものを表す言葉。

後述していく本楽曲の歌詞では

灰色に白んだ心は
カプチーノみたいな色してる

と、黒でも白でもない曖昧な感情(グレー)を表すように使われており、タイトルでもその中途半端な色合いと心情を重ねるべく起用されているのかも知れませんが、ここで1つ推したい「カプチーノ」の隠された意味があります。

それは、

「カプチーノ」=「蓋」

という意味があるという説です。

これは、エスプレッソに浮かんだミルクの泡を蓋に見立てたことに起因しているそうです。

ここは見落としてはいけないポイントだと思っています。

 

それぞれ上のように解釈した

「雨」「カプチーノ」を統合すると

涙に蓋をして前に進む。

という切ない意味合いをタイトルに持たせることが可能となり、エルマにとっての涙の原因は「眩しすぎるエイミーとの過去」でありますから

過去に蓋をして前に進む。

というメッセージを持つように解釈ができるのです。

MVの情景とも重なりますね。

では、本題の歌詞に迫っていきましょう。

歌詞

灰色に白んだ言葉は
カプチーノみたいな色してる
言い訳はいいよ 窓辺に置いてきて
数え切れないよ

灰色に白んだ心は
カプチーノみたいな色してる
言い訳はいいよ 呷ろうカプチーノ
戯けた振りして

さぁ揺蕩うように雨流れ
僕らに嵐す花に溺れ
君が褪せないような思い出を
どうか、どうか、どうか君が溢れないように

波待つ海岸 紅夕差す日
窓に反射して
八月のヴィスビー 潮騒
待ちぼうけ 海風一つで

夏泳いだ花の白さ、宵の雨
流る夜に溺れ
誰も褪せないような花一つ
どうか、どうか、どうか胸の内側に挿して

ずっとおかしいんだ
生き方一つ教えてほしいだけ
払えるものなんて僕にはもうないけど
何も答えられないなら言葉一つでもいいよ
わからないよ
本当にわかんないんだよ

さぁ揺蕩うように雨流れ
僕らに嵐す花に溺れ
君が褪せないように書く詩を
どうか、どうか、どうか今も忘れないように

また一つ夏が終わって、花一つを胸に抱いて、
流る目蓋の裏で
君が褪せないようにこの詩を
どうか、どうか君が溢れないように

作詞作曲: n-buna

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歌詞の意味・解釈

1番

灰色に白んだ言葉は
カプチーノみたいな色してる
言い訳はいいよ 窓辺に置いてきて
数え切れないよ

灰色に白んだ心は
カプチーノみたいな色してる
言い訳はいいよ 呷ろうカプチーノ
戯けた振りして

作詞作曲: n-buna

繰り返される

灰色に白んだ言葉は
カプチーノみたいな色してる

という部分がここのポイントですね。

タイトル解釈でも述べたように、これはエルマ側の曖昧(グレー)な心情を表しています。

ここに関しては、グッとくるような考察がMVのコメント欄にありましたので、是非とも共有させていただきます。

エルマとエイミーの着てる服が白と黒。この映像に出てくるように鍵盤の色と一緒。
白鍵と黒鍵、お互いがあってこそ1つのモノになるけど、決して片方だけでは成り立たないし混ざることも無い。
この2人も同じで、エルマがエイミーの生き方を口調を真似しても、エイミーがエルマの真似をしても、黒が白にはなれないし、白が黒にもなれない。灰色になっちゃう。それが2つの色が混ざってるカプチーノみたい。

MVに寄り添った考察が素晴らしすぎますね。

私自身、このカプチーノの灰色は、伝えることができなくなったエイミーに対する愛情や、もう会えない関係性にあるから、白にも黒にも染まることができない灰色(中途半端な感情)のまま、これからを生きていかないといけないというエルマの悟り。のようなものであると感じていたのですが、鍵盤に例えて「お互いの重要性」「お互いの相違性」を証明する考察を見て思わず拍手を送っちゃいました。

 

呷るとは、酒や毒を一気に飲むこと。

つまり「カプチーノ」を呷ろうという言動には、

  • エイミーという存在の大きさ
  • エイミーとの過去には戻れないこと

これらを受容して前を向こう。

といった意味合いが隠されています。

あくまでもポジティブに。

サビ1

さぁ揺蕩うように雨流れ
僕らに嵐す花に溺れ
君が褪せないような思い出を
どうか、どうか、どうか君が溢れないように

作詞作曲: n-buna

揺蕩うとは、揺れ動いて定まらないこと。

タイトル解説で述べたように

「雨」という言葉は、過去を想起させる。

つまり

揺蕩うように流れる雨

とは、虚ろに想い出される情景。

君が褪せないような思い出

という文とも重なりますが

エイミーとの思い出には戻れないと受容した今でも、素敵な思い出は頭の中で駆け巡っているのです。

“君が溢れないように”

と蓋(カプチーノ)をしながら。

2番

波待つ海岸 紅夕差す日
窓に反射して
八月のヴィスビー 潮騒
待ちぼうけ 海風一つで

作詞作曲: n-buna

ここではスウェーデンで暮らしていたときの具体的情景が歌詞として綴られています。

他楽曲の考察「八月、某、月明り」の「ストックホルムの露天商」「 キルナ」「ガムラスタン」などによりエイミーとエルマの二人を描く楽曲の舞台はスウェーデンが中心になっていたことが明らかになりました。

また、アルバム「エルマ」の収録曲である「心に穴が空いた」のMVも舞台はスウェーデン・ゴットランド島でした。

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サビ2

夏泳いだ花の白さ、宵の雨
流る夜に溺れ
誰も褪せないような花一つ
どうか、どうか、どうか胸の内側に挿して

作詞作曲: n-buna

ここは

エイミーとの想い出が色褪せていくのが苦しい。

というエルマの本音が描かれています。

他楽曲「パレード」

乾かないように想い出を
失くさないようにこの歌を
忘れないで もうちょっとだけでいい

という歌詞がありましたが、それと似たような内容であると思っています。

 

本歌詞の、雨の流る夜

エイミーを思い出して涙する夜

という意味合いが強いです。

そして、褪せないような花

時間が経っても忘れることのない思い出

を対比しています。

 

もしかすると、カプチーノ(灰色)は、

消えてしまいそうな曖昧な思い出。

という意味も包括しているのかも知れません。

そうすると「雨とカプチーノ」は

雨で流されそうなほどの曖昧な思い出

という意味を持つようにも考えることができますね。さすがヨルシカ楽曲は解釈の幅が広いです。曖昧で消えそうだからこそ、かけがえのないものだと認識して、大切にしようと思考が働いているのかも知れません。

3番

ずっとおかしいんだ
生き方一つ教えてほしいだけ
払えるものなんて僕にはもうないけど
何も答えられないなら言葉一つでもいいよ
わからないよ
本当にわかんないんだよ

作詞作曲: n-buna

エルマは、エイミーがいなくなってから「おかしくなった」といっても良いくらい人生の路頭に迷っています。

どこか陰が垣間見える歌詞により、

抱えていた気持ちの大きさ

一緒にいれた時間の幸福さ

が、改めて強く伝わります。

また補足ですが、本楽曲「雨とカプチーノ」は、エイミー目線で綴られる別楽曲「詩書きとコーヒー」のアンサーソングです。

詩書きとコーヒーで

わかんないよ わかんないよ

とエイミーが連呼していましたが

本楽曲ではエルマが

わからないよ
本当にわかんないんだよ

呟いています。

同じ気持ちを抱えているのに噛み合わない二人に、より切なさを感じますね。

ラストサビ

さぁ揺蕩うように雨流れ
僕らに嵐す花に溺れ
君が褪せないように書く詩を
どうか、どうか、どうか今も忘れないように

また一つ夏が終わって、花一つを胸に抱いて、
流る目蓋の裏で
君が褪せないようにこの詩を
どうか、どうか君が溢れないように

作詞作曲: n-buna

全体を通して

エイミーがいないことを受容して前を向こう

というポジティブなメッセージが伝わりつつも

最終的に強く残った印象は「虚無感」でした。

  • どうかどうか忘れないように
  • どうかどうか君が溢れないように

などの文からは、過去に縋りついている様子が特に鮮明に伝わってきました。

感想

「詩書きとコーヒー」は、コーヒーが冷えていくさまを、愛情や音楽に対する意欲が薄れていくさまに重ね合わせて構成された楽曲でしたが、アンサーソングである「雨とカプチーノ」は君がいないことにより、想い出や感情が希薄していくこと。それを恐れているさまが描かれていた楽曲のように感じました。

今回紹介した「雨とカプチーノ」を含め、ヨルシカの楽曲を複数考察した結果、確かに言えることは

エルマもエイミーも同じ感情を抱いていた

ということです。

これを知っておくことで、物語の情景や登場人物の心情により共感することができ、更に楽曲に寄り添うことができるのではないでしょうか?

【ヨルシカ/雨とカプチーノ】

MVと歌詞の意味の解釈でした!(‘ω’)

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コメント

  1. さくゆき より:

    すさまじい考察ですね

    とても曲に対して、おもいを巡らせたのだろうと感じました

    さらに曲に深みが加わりました
    さてさて、また聞きに行ってまいります。

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