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【米津玄師/さよーならまたいつか!】歌詞の意味を徹底解釈!100年先の未来に込めた祈りを解説。

2番

しぐるるやしぐるる町へ歩み入る そこかしこで袖触れる
見上げた先には何も居なかった ああ居なかった

2番冒頭では少々歌詞のテイストが変わって、古文口調の米津節が入ってきます。

「しぐるる」は時雨(小雨)が降ることで、「袖触れる」はちょっとした人の交流。また、古文の世界では「袖」が濡れることは「その人物が悲しみから涙を流している」ことを表すことが多く、涙の事を「袖の時雨」と表現することも。

 

この場面でも恐らく意図的に「時雨」と「袖」が同時に使われているので、主人公の悲しみを表現しているのだと思われます。

1番で自由に飛び交っていたツバメもいなくなっているし、人間関係もどうにも上手く行かないし、なんだか気が晴れない感じが表現されています。

 

したり顔で 触らないで 背中を殴りつける的外れ
人が宣う地獄の先にこそ わたしは春を見る

この部分の歌詞は、朝ドラのある場面と密接に結びついたものであることを米津さんはインタビューで明かしています。

 

作中で主人公である寅子は周囲に対し、自分は法律家になりたいのだと説得を試みます。

しかし、当時は女性の幸せは家庭に入り、家のために尽くすことだとされていたような時代。

母親はその先に待ち受けるであろう地獄のような生き辛さを憂い、主人公の夢に反対し、「あなたを思ってこうしたほうが生きやすいんだ」ということを主人公に説きます。

《したり顔で 触らないで 背中を殴りつける的外れ》

それに対し主人公は、世の中にとっての正解はそうかもしれないけれど、それは自分にとっての幸せではないのだと反論します。

《人が宣う地獄の先にこそ わたしは春を見る》

つまりあなたの言う「地獄」のような、法律家としての人生を歩んだ先にこそ、私は幸せを見出すのだと。

 

「私には私の生き方があって、それを遵守したいという。そこはすごくいいシーンだと思ったし、すごく共感も覚えました。この物語の本質的な部分だと思ったし、すごく影響を受けましたね。」

米津さんはこの場面についてそのように語っています。

作品の本質である主人公・寅子の信念をまさに表した、力強い歌詞ですね。

 

ちなみにこの説得のシーンで、二人は振袖を買いに出かけています。

先ほどの「袖」に関する歌詞も、恐らくこの場面からインスピレーションを受けたものでしょう。

 

ラストサビ

誰かを愛したくて でも痛くて いつしか雨霰
繋がれていた縄を握りしめて しかと噛みちぎる
貫け狙い定め 蓋し虎へ どこまでもゆけ
100年先のあなたに会いたい 消え失せるなよ さよーならまたいつか!

ここで少々脱線して、ここまで触れてこなかった《さよなら100年先でまた会いましょう》《100年先のあなたに会いたい》といった歌詞に込められた想いについて、詳しく解説します。

 

この曲では一貫して、100年先という遥かな未来への憧れや祈りが込められています。

「ものすごく遠い未来に憧れがあるんです。」

米津さんはインタビューの中で、遥か先の未来に対する憧れや希望を口にしていました。

 

ここからはその内容を、噛み砕いて要約してお届けします。

道端のガードレールもバス停も、普通に女性の弁護士が活躍する今の価値観も、誰が作ったかなんて知りやしないけれど、確実に誰かが作ったからそこにある。遠い昔の、名前も知らない人たちの「こうあってほしい」という祈りがあったから今の社会の当たり前がある。同じように、100年先の未来では自分のことなんか誰も覚えていないだろうけれど、何らかの形で、受け継がれていくものは確実にあると思いたい。自分の姿形がなくなったとしても、残るものが何かあるかもしれない。そのことが自分にとって救いのように感じられるんです。

思えば米津さんは過去に「迷える羊」という楽曲の中でも、遥か先の未来へ思いを馳せる歌詞を綴っていました。

 

歌詞の解説に戻ります。

 

《100年先も憶えてるかな 知らねえけれど さよーならまたいつか!》

《100年先のあなたに会いたい 消え失せるなよ さよーならまたいつか!》

今抱えている苦悩や葛藤はすぐに消えるものではないだろうし、今すぐ何かが変わるわけでもない。くそったれ。

でもそんな自分の人生に、100年先の遠い未来にもし何か繋がるものがあるのだとすれば、何だか気が楽になった気がする。少し救われたような気がする。

そんな希望的なメッセージが、この曲の歌詞には込められているのでしょう。

 

骨助
骨助

ドラマ「虎に翼」は100年も昔に、今の私たちにとって当たり前の、男女の仕事の価値観に繋がる人生を送った、そんな人物に光を当てた作品であるともいえます。

 

今恋に落ちて また砕けて 離れ離れ
口の中はたと血が滲んで 空に唾を吐く
今羽を広げ 気儘に飛べ どこまでもゆけ
生まれた日からわたしでいたんだ 知らなかっただろ
さよーならまたいつか!

男女の価値観も今とは大きく異なる時代。当時の女性としては珍しく、法律家として社会進出する道を選んだ寅子にとって、いわゆる「普通」の恋愛を送ることも簡単ではなかったでしょう。

 

《口の中はたと血が滲んで 空に唾を吐く》

怒りに近いエネルギーをぶちまけながら、彼女はツバメのように力強く自分の人生を進んでいきます。

 

《生まれた日からわたしでいたんだ 知らなかっただろ》

私は生まれた時からずっと私の人生を歩んできた。自分の信じる道を歩き続けてきた。これからもそう。

さよーなら、またいつか!

 

自分の人生を歩んでいこうという力強さと、社会に対する「キレ」「怒り」、そして未来への祈りが込められた、これまでにないような朝ドラ主題歌だと思います。

 

感想・まとめ

物語のヒロインと同じ視点に立って、ある種の怒りや未来への祈りを込めた今回の楽曲。

米津玄師さんは当初は「虎に翼」の物語を客観視し、奮闘する女性をただ俯瞰的に応援する曲を書くことを考えたそうですが、結果的に彼はそれを選びませんでした。

 

「がんばる君へエールを」という方法だと、逆に女性を神聖視するような形になるんじゃないかと思った。自分の性質上、対象をある種のミューズのように扱う形になりそうな気がしたんですよね。でもそれは、結局“裏返し”でしかない。神聖視するのも卑下するのも根っこは一緒な気がする。なので、少なくとも自分にとって客観的になるのはおよそ不可能で。あくまで私事として、主観的に曲を作らざるを得ないと思ったんですよね。

インタビューの中で、米津さんはこのように語っています。

 

女性を神聖視した楽曲を作ることは、女性という性を特別なものとして扱っているという意味で、女性を卑下するのと根っこでは変わらないのではないか。米津さんはそう考え、あくまで主観的に主人公の感情に寄り添うことを選びました。

男性ミュージシャンとして、女性の社会進出やフェミニズムというドラマの題材にどこまでも真摯に向き合った結果生まれた、米津さんらしい名曲だと思います。

 

【米津玄師/さよーならまたいつか!】

歌詞の意味の解釈でした!

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