サビ2
それはフラミンゴ
恐ろしやフラミンゴ はにかんだ
ふわふわ浮かんでもうさいなら
そりゃないね もっとちゃんと話そうぜ
畜生め 吐いた唾も飲まないで
はにかんだ ふわふわ浮かんでもうさいなら
微笑む花魁の顔。
しばらくはお金を集めるために座敷に行けない。
どんなに足掻いても時間になればお終い。
そんな無情さに対して
そりゃないね もっとちゃんと話そうぜ
と、すがりつく主人公。
吐いた唾は飲めないとは、
一度口から出した言葉は
取り消すことはできないということ。
花魁の態度の差に
ちくしょうめ
と吐き捨てているのでしょう。
3番
氷雨に打たれて鼻垂らし
あたしは右手にねこじゃらし
今日日この程度じゃ騙せない
間で彷徨う常しえに
地獄の閻魔に申し入り
あの子を見受けておくんなまし
酔いどれ張り子の物語
やったれ死ぬまで猿芝居
右手に猫じゃらし
猫じゃらしというのは、江戸時代後期に流行った男性の帯の結び方の名前で、秋の季語のエノコノグサの別名でもあるそう。
仮定したこの楽曲の時節とマッチしますね。
間で彷徨う常しえに
常しえとは、いつまでも続くということ。
永遠に続く、客と花魁という関係。
それが嫌になってきたから
地獄の閻魔に申しいりします。
あの子をみうけておくんなましと。
花魁を買うことを“身請け”と言う。
おくんなましは、
遊女の出身が言葉の訛りで分からないようにするため、遊郭でのみ使われていた廓言葉で、してくださいと同義。
酔いどれ張り子
威勢ばかりで中身の伴わないことを指す
「張子の虎」という
ことわざが連想されます。
猿芝居とは、へたな芝居のこと。
花魁の客に対する姿を、猿芝居といっています。でも、そんな花魁に夢中だから、一生抜け出せない。
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ラストサビ
あなたフラミンゴ
鮮やかなフラミンゴ 踊るまま
ふらふら笑ってもう帰らない
寂しさと嫉妬ばっか残して
毎度あり 次はもっと大事にして
1番と同じ内容です。
記事初めで紹介しましたが
『Flamingo』というのは
愛の象徴という意味を持ちます。
しかし、この歌が歌うのは
花魁とその客の物語。
少なくとも、純粋な恋愛話ではありません。
さまざまな情景を比喩してつけられた
『Flamingo』なのでしょうが
敢えて、愛の象徴であるこの言葉を使っていることで、主人公の憂鬱が更に深く突き刺さってきます。
感想
今や人気大絶頂の米津玄師。
逸脱された音楽センスは周知の通り。
前作の『Lemon』とは、またうって変わった曲感であり、楽曲の幅広さを改めて認識させられます。(本曲の方が米津イメージが強いかと思われますが)
あくまでも自己解釈でしたが
花魁とその客を描いている
とすると、狂言や演歌みたいな歌い方
にも納得できるのではないでしょうか。
まだの方はこちらも合わせてどうぞ。
【米津玄師/Flamingo】
MVと歌詞の意味の解釈でした!(‘ω’)
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コメント
こちらの考察のおかげで、ぼんやりとしていた情景がより鮮やかになりました。ありがとうございます。
他にもFlamingoの考察を読みましたが、私としてはこちらの考察が一番しっくりきました。
一点、読ませていただきつつ感じたことがあるのですが、
宵闇に 爪弾き
悲しみに雨曝し 花曇り
枯れた街 にべもなし
この部分は、当時、好みの花魁の馴染みになるには最低でも3回は通う必要があって、その都度たくさんのご祝儀が必要だったというような話から、
秋の夕暮れには爪弾きにされた
(梅雨又は夏)の雨に晒され悲しみ
花曇りの頃も冬枯れの街も
にべもない
という感じで、想いを抱えている期間が非常に長い事を表現しているのではないかと感じました。
以上、乱筆乱文のほど、ご容赦願います。
今後も読みごたえのある記事を楽しみにしております。
主人公を取り巻く情景が更に深まる解釈ですね。素晴らしい。コメントならびに考察のプラスaまでありがとうございます。
他サイトで色々な考察を読みましたが、こちらの解釈が一番納得できました。
私のような凡人にはなかなか理解できない世界観を楽しむことができて嬉しいです♪
ありがとうございました!
コメントありがとうございます。嬉しいお言葉。お褒め頂き光栄です。
フィリピン現地の女性と娘二人を作って、結婚はしていないけど、日本から月の3分の1はフィリピンマニラに通う日本人男性が、娘達を産んでくれた女性がたびたび過ちを犯すんだ…と言いながら、この曲いいと思うんだよね、と言っていたのがフラミンゴでした。まさに、マニラの女性を想う心情なのでしょうね。